また、ここで。

湯気に包まれたその空間は、日常の輪郭を曖昧にする。職場のストレスや、友人との付き合い、些細な悩み。

すべてが熱とともに汗となり、身体から溶け出していくような感覚が心地よかった。

今日も俺は、一人でサウナに来ていた。近所の小さな銭湯に併設された昔ながらのドライサウナ。

昭和の香りが残る木のベンチとうっすら焦げたような匂い。決して新しくはないが、どこか落ち着くこの場所が最近の俺の癒しだった。

脱衣所で服をしまい、タオルを肩にかける。

サウナに入るときは、まず必ず身体をしっかり洗って、ぬるめの湯船で少し体を温めてからにする。なんとなく決めている自分なりのルールだ。

「急に熱いとこ入ると、逆にのぼせんだよな……」

そうつぶやきながら、いつものように洗い場の椅子に腰を下ろし、桶に湯をためて首の後ろからかけ湯をする。

そのまま、肩、背中、腕、胸――順番も、いつもと同じ。

そして、最後に両手を丁寧にこすり合わせて洗う。これはなぜか昔からの癖のようになっていた。

体を洗い終え、湯船に肩までつかる。耳の奥で水音が静かに響く。

今日も、何気ない日だ――そう思っていた。

バスタオルを腰に巻き、汗を拭きながらサウナ室の扉を開けると、湯気の向こうに先客が一人座っていた。

視界が曇っていてよく見えなかったが、その背中にはどこか見覚えがあった。

短く刈り上げられた白髪混じりの髪、広くて丸い肩、そして落ち着いた姿勢。

 「……あれ?」

思わず声が漏れた。相手がこちらを振り向いたその瞬間、俺の目は大きく見開かれた。

 「おお、ショウか」

間違いない。目の前にいたのは、俺の父だった。

     * * *

父と最後に会ったのは、半年ほど前だっただろうか。用事があって実家に顔を出したとき、母を交えて三人で夕飯を囲んだのが最後だ。それ以来、連絡もろくに取っていなかった。

喧嘩をしたわけでもない。ただ、なんとなく会話が続かないというか、気まずい空気を避けるようにしていたのだ。

父は無口な人間だった。厳格というほどではないが、感情をあまり表に出さず、俺が子どもの頃も多くを語ることはなかった。誉められた記憶も少ないし、叱られた記憶ばかりが強く残っている。

そんな父と、こんな形で再会するとは 想像もしなかった。

俺は父の一段下に腰を下ろし、タオルで顔の汗をぬぐった。

サウナの隅に設置された小さなテレビが、ぼんやりとバラエティ番組を映している。芸人たちが何かを叫んでいるが、音はほとんど聞こえず画面の中の笑い声だけが浮いていた。

ヒーターの低いうなりと、二人の静かな呼吸。汗の粒がゆっくりと肌を伝って落ちていく。

視線はテレビに向いているが、頭の中は落ち着かない。どちらから話し出すでもなく、かといって気まずさを紛らわす術もない。

ふと父がタオルで額をぬぐう。その動きに、俺も自然と続けた。

こんなふうに並んでテレビを見るのは、どれくらいぶりだろう。言葉を交わさなくても、同じ場所にいるというだけで、なにか不思議な距離がそこにあった。

言葉の代わりに、テレビの中の笑い声だけが、空気をなだめるように流れていた。

視線だけがテレビに向いている中、画面の中で芸人がバランスボールから派手に転げ落ち、周囲が笑いに包まれた。

小さい音でも何が起きたのかは映像だけでなんとなくわかる。

その瞬間、俺の喉の奥から小さな笑いが漏れた。

「……ふっ」

斜め上で、ほぼ同時に父も鼻で笑った。

ふたりして顔を見合わせるわけでもなく、ただ、笑っただけだった。けれど、その一瞬で、空気がふわりとほどける。

思わず口が動いた。

 「……よく来るんだ、ここ?」

 「週に一回くらいかな。家から近いし、気に入っててな」

 それだけ言って、父はまた黙った。でも、答えが帰ってきたことが少し嬉しかった。俺は何を言えばいいのかわからずしばし沈黙が続く。

サウナの中の静寂と、ストーブから聞こえる微かな「ジュッ」という音が、やけに耳に残った。

 「……ショウも、もう26か?」

次は、父がポツリと呟いた。

 「……ああ、来月で27になる」

 「早いもんだな。お前が生まれたとき、雪が積もっててな。あの日のこと、今でも覚えてるよ」

 ふと父が笑みを浮かべた。それは、俺が子どもの頃に見たことのある、ごく僅かな優しい表情だった。

 「……へぇ。そんな話、初めて聞いた」

 「お前が風邪ひかないように、毛布三枚持って病院行ったんだ。母さんに『やりすぎ』って笑われたよ」

そう言って、父は少し照れたように笑った。サウナの熱で顔が赤くなっているせいだけではない、

その笑みは、どこか少年のようだった。

ふと、記憶がよみがえる。

「そういえばさ……初めてサウナに入ったのも、父さんとだったよな。たぶん小学校高学年くらいのとき」

「覚えてるぞ。お前、5分も持たずに出ていった」

「熱いの無理って言ったら、氷の入ったペットボトル持ってきてくれたじゃん。『サウナは修行じゃない』とか言ってさ」

父は、肩を揺らして笑った。

「そう言ったな。あれは母さんの受け売りだ」

「でもあのとき、帰りに買ってくれたコーラがめっちゃうまかった。なんか、特別な日だった気がする」

「たしか、夏休みの終わりだったな。お前の宿題がまだ終わってなくて、母さんが鬼になってた」

「あ〜、思い出した……。俺、逃げるように父さんと出かけたんだっけ」

「サウナで反省するのも悪くないと思ってな」

二人で笑ったあと、ふっと沈黙が訪れた。でもその静けさも、悪くなかった。

     * * *

サウナ室を出て、俺たちは水風呂の前で顔を見合わせた。

どちらからともなく、同時に腰を下ろす。冷水が肌に食い込むような刺激を与えたが、不思議と心地よかった。

 「父さん、定年迎えたんだよな?」

 「ああ。去年の春だ。今は市の清掃のバイトをしてる。暇を持て余してると、母さんに怒られるからな」

 「……相変わらず、母さんは強いな」

 「お前そっくりだよ。頑固なところとか、気まずいと黙るとことか」

俺は思わず笑ってしまった。

 「たしかに。……父さんも、あんまり喋らないよな」

 「お前とどう接していいかわからなかったんだ。俺の父親はもっと厳しくてな。褒められたことなんか一度もなかった。だから、どうすればいいか、わからなかった」

初めて聞く父の本音に、俺の胸は少し熱くなった。

 「それでも、俺には伝わってたよ。……父さんが、俺のこと考えてくれてたってこと」

 「そうか?」

 「俺が大学受験に向かう日、仕事の格好で朝飯食べてたけど本当は有給取っていつでも動けるように準備してくれてたんだろ。あれ、地味に嬉しかったんだよな。」

父は照れくさそうに頷いた。

 「不器用で悪かったな」

 「……俺も……だから今日、会えてよかった」

父は驚いたようにこちらを見たが、すぐにゆっくりと目を閉じて、静かに頷いた。

数分して、俺が先に水から上がると、父も少し遅れて立ち上がった。

身体にまとわりつく冷水を、手でさっとぬぐっている姿が妙に落ち着いて見えた。

父はそのまま洗い場に戻り、ふたたび身体を流しはじめた。

椅子に腰を下ろし、桶で首の後ろから静かに湯をかける。

その動きは迷いがなく、まるでずっと決まっていた順番のように、背中、肩、腕、胸と流れていく。

最後に、濡れた手をゆっくりとこすり合わせながら洗い終えると、タオルを絞りながらこちらに目を向ける。

「……先に出てる」

それだけ言って、父はのれんの向こうへと消えていった。

     * * *

身体を拭いて脱衣所を出ると、ロビーのベンチで父が一人、座っていた。

その手には、茶色いラベルの、コーヒー牛乳が二本。

 「……それ、俺の分?」

父は瓶を一本、無言で差し出した。

 「ありがとう。」

素直に受け取って、隣に腰を下ろす。瓶の口を開けると、ぷしゅっと懐かしい音がした。ひとくち飲めば、甘さと微かな苦味が喉をすべっていく。

 「昔はコーラだったけどな」

「そうだな。だいぶ大人になった」

俺は瓶を見つめながら、少しだけ笑った。

 「父さん、待っててくれたんだな」

 「まあな」

 「……嬉しかったよ。今日、偶然だったけど」

 「偶然じゃないかもしれん」

 「え?」

父は視線を前に向けたまま、続けた。

 「先週、母さんから聞いたんだ。ショウが最近ここに来てるって。だから、もしかしたら会えるかなと思って……時間を合わせてみた」

言葉を失った。父の不器用な優しさが、ようやく言葉になって届いてきた。

 「……なんで、そんなこと、いきなり」

 「お前と、少し話してみたかった。俺も、歳をとったってことかな」

照れ隠しのように言うその一言に、胸がじんと熱くなった。

 「……じゃあ、来週も同じ時間に来るよ。今度は、俺がコーヒー牛乳買っとく」

父は少しだけ驚いたような顔をして、そして小さくうなずいた。

     * * *

ロビーの古い柱時計が、午後七時を告げた。

父と俺は、空になった瓶を返却口に置き、玄関を出る。春の夜風がほんのり冷たく、でも心は妙にあたたかかった。

 「……やっぱ風、気持ちいいな」

俺がそう言うと、父は前を向いたままうなずいた。

「汗が乾くと冷えるぞ。タオル、まだ持ってるか」

「ある。大丈夫」

「そうか」

それきり、またしばらく無言になった。でも、その沈黙は気まずくなかった。

ふたりして、夜の空気を吸いながら、コンビニの看板や遠くの車の音をなんとなく眺めていた。

「……最近、どうなんだ。仕事とか」

父がぽつりと聞いた。

「まあ、なんとか。慣れてはきたけど、いろいろあるよ」

「無理するな」

「……ありがと」

不器用な会話だったけど、それでも言葉を交わすたびに胸の奥に何かが積もっていく感じがした。

駐車場に着いたところで、父がふと立ち止まる。

「じゃあな」

そう言って背を向けかけた、そのときだった。

「……風邪ひくなよ」

振り返りもせずに、ぽつんと落とされたその言葉に、また胸がじわりと熱くなる。

「うん。……父さんもな」

思わず返した声は、少しだけ遅れて夜空に溶けていった。

 

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