昔と変わらない、くたびれた暖簾が風に揺れている。
看板の文字は少し色あせていたけれど、その雰囲気さえも懐かしい。
ユウタは足を止め、静かに深呼吸をした。
この道を歩くのは何年ぶりだろうか。
スーツでも作業着でもない、ラフな格好。現場が早く終わった日くらい、肩の力を抜きたくなる。
ガラス戸を開けると、ふわっとヒノキの香りが鼻先をくすぐった。
湿った空気。こもった熱。
それだけで、一気にあの頃に引き戻される。
「いらっしゃい……って、あら!ユウタじゃないの!」
カウンターの奥、おばちゃんが目を丸くした。
小柄な体にエプロン姿。あの頃とまるで変わっていない。
「久しぶりねぇ。いまでも、現場の仕事?」
「うん。あちこち飛ばされるけどさ。明日から、またこの辺の現場なんだよね」
「へぇ〜、それはまた。なんか縁感じるじゃないの」
「そうだね……なんか、引っ張られた気がしてさ」
高校の頃、部活帰りに毎日のように立ち寄っていた場所。
あの熱さも、冷たさも、自分の一部になっていた。
「今日が最後なんだって聞いて。どうしても来たくなったんだ」
「うん……ありがとね。こうして、顔見せに来てくれるのが一番うれしいよ」
おばちゃんが差し出した鍵は、少し色の剥げた古びたものだった。
けれど、それがいい。ずっとここにあった証。
ユウタは鍵を握りしめて、のれんをくぐる。
すこし軋む床の音も、今は心地よく響いた。
—— —— ——
タイルの床を歩くたびに、水音が心地よく響く。
湯気はやわらかく空間を包み込み、視界をぼんやりと曇らせていた。
ユウタは、ゆっくりと湯船に体を沈めた。
ぬるめの湯が、じんわりと張りつめた肩の力を溶かしていく。
「……変わらないな」
思わず、口に出た。
壁のタイルも、桶の色も、シャワーのぬるさも、なにもかも。
湯の中でまどろむうちに、ひとつの記憶が浮かび上がる。
——あれは、高校2年の冬だった。
サッカー部の地区大会。ベスト4をかけた大事な試合で、ユウタたちは逆転負けを喫した。
帰り道、無言のまま自転車をこいでここへ来た。
悔しさをどこにぶつけていいかわからず、脱衣所でユニフォームを投げつけたのを覚えている。
湯船につかり、うつむいたまま目を閉じた。気づけば、涙がぽろぽろと落ちていた。
顔を上げるのが恥ずかしくて、誰にも見られないように小さく肩を震わせていた。
——その時、すぐ横にいたおっちゃんが、こう言ったんだ。
「お湯は、全部流してくれるぞ。悔しいもんも、情けないもんもな」
知らない人だった。でも、その一言でなんだか少しだけ救われた。
今も同じ湯船に浸かっているのに、もう涙は出てこない。
悔しさの種類が変わったのかもしれない。
「……しみるな」
ぽつりと漏らした言葉は、湯気の向こうに吸い込まれていった。
木の扉を開けると、むわっと熱が押し寄せてきた。
年季の入ったサウナ室。電気ストーブのじりじりとした音。
目を細めながら、一番奥の段に腰を下ろす。
しばらくは誰も入ってこなかった。
静かな時間に、汗と一緒に思考が溶けていく。
「……おっ、誰かと思ったら、泣き虫じゃねぇか」
声に振り返ると、入り口にひとりのおっちゃんが立っていた。
タオルを肩にかけて、ちょっと猫背。
顔を見た瞬間、ユウタは思わず笑ってしまった。
「……まだ生きてたんすね」
「誰が死んどるか!毎日ここで“ととのい”決めとるわ」
おっちゃんは、どっかりとユウタの隣に座る。
この温度差が、たまらなく懐かしい。
「覚えとるか?お前が泣きながら湯船に浸かってた日のこと」
「うん、忘れられるわけないですよ。あの時の一言、効きましたよ」
「なんつったっけな……『お湯は全部流してくれる』、だっけか?」
「そう。それ」
「今も効くか?」
「……効きますね。ちょっとだけマシになります」
二人して黙ったまま、じっと前を見つめた。
熱さが身体の芯に染みて、何も言わなくても通じる空気がそこにあった。
「で?今は何やってんだ?」
「現場監督っす。まあ、なんとかやってますよ」
「立派なもんだ。俺はもう、膝が笑って動かん。だから毎日ここさ」
おっちゃんの額から伝う汗を見ながら、ユウタはぽつりと言った。
「明日から、この辺の現場なんですよ」
「……ほぉ。そいつぁまた、縁だな」
「ですね。たまたまなんですけど……来たくなったんすよ、今日」
「たまたまじゃないさ。ちゃんと、お湯が呼んでくれたんだよ」
その言葉に、なぜか妙に納得してしまう。
変わらない場所に、変わらない人がいて、
変わってしまった自分を、すっと迎えてくれる。
——やっぱり、ここは特別な場所だ。
しばらく無言のまま、ストーブの音と、身体を流れる汗の音だけが響いていた。
ふと、おっちゃんがぼそっと呟く。
「俺もな、このサウナでいろんなもん流してきたよ」
「……いろんなもん、ですか」
「仕事でしくじった日も、女房と喧嘩した日も……親父が死んだ日も。ここで、全部ひとりで汗かいて、流して帰った。言葉にすると軽くなるからな」
ユウタは横目でおっちゃんを見る。
その横顔には、サウナの熱だけじゃない深みがにじんでいた。
「泣いてる姿なんか、他人には見せたくないですもんね」
「それもあるけどよ。俺にとって、ここは“黙っててくれる場所”だったんだよ。静かにしててくれて、でもちゃんと側にはいてくれる」
「……なんかわかります。俺も、たぶんそうだったかもしれない」
「そうか。なら、お前もちゃんと“大人”になったな」
その言葉に、なぜか少し胸が熱くなった。
じっくりと汗をかいたあと、ユウタはいつものようにサウナ室を出た。
すぐ隣にある水風呂。……というより、ほぼ“水桶”。
定員1名、深さも腰ちょっと上くらい。
入り方にもコツがあって、勢いよく入ると水が一気にあふれて、次の人がぬるくなる。
「これ、変わってないな……」
ひとり分のスペースに、そっと身を沈める。
足をたたんで、膝を抱えるようにして。
冷たいというより、“ちょっと冷たい”くらいの水温も、そのままだった。
でも、それがいい。
水がごぼっと溢れた音に、思わず笑みがこぼれる。
高校のときは、ふざけてこの水風呂に3人同時に入ろうとして、おばちゃんに本気で怒られたっけ。
「3人入れるわけないでしょ!!」
その言葉に大爆笑しながら、頭までびしょ濡れで外に出たあの日。
なんであんなことであんなに笑えたのか、今でも思い出すとじわじわくる。
水風呂から出て、外気浴スペースへ向かう。
サウナの裏手にある小さな中庭。
コンクリの割れた床と、雑草がところどころ顔を出すその景色も、まるで変わっていなかった。
椅子はプラスチック製のやつがひとつ。
少しヒビが入ってて、座るたびにギシッと音を立てる。
でも、高校の頃からこの“特等席”は誰にも譲りたくなかった。
星が、よく見える。
街灯の届かない、ちょっと暗い裏庭。
風がふっと吹いて、火照った身体を優しく撫でた。
扇風機はひとつだけ、中の脱衣所にぽつんと置かれている。
順番をめぐって、友達とじゃんけんしたのも、今ではいい思い出だ。
不便だった。
どこもかしこも、ちょっとずつズレてた。
でも——このズレが、自分のまっすぐじゃない部分を、なんとなく整えてくれた気がする。
「……ととのった」
声には出さず、心の中でだけ、そっとつぶやく。
あの頃の自分が、少しだけ微笑んでいる気がした。
着替えを済ませ、番台に向かうと、おばちゃんは変わらずエプロン姿で立っていた。
夕方の光がガラス越しに差し込んで、店内がほんのりオレンジ色に染まっている。
「気持ちよかったかい?」
「うん、ばっちり。なんか……色んなもん流れた気がします」
「そりゃ良かった。あんた、昔からそうだったもんね。熱いの我慢して、どっぷり入ってたよ」
「俺、そんなでした?」
「してたよ〜。友達と来て、じゃんけんして、騒いで……でも誰より長くサウナに残ってたの、あんたよ」
おばちゃんの言葉に、思わず笑みがこぼれる。
思い出の断片が、またひとつ、胸の中でふわっと灯った気がした。
「……今日、来てよかったです」
「うん、来てくれてありがと。ほんとに、嬉しいよ」
レジの横にあったスタンプカードを、ふと手に取る。
いつかの途中で途切れたまま、色あせた印字。
「また来てね、って言いたいけど……もう言えないのが、さみしいねぇ」
「そうですね……でも、また来ますよ」
ユウタは、微笑んだままそう言った。
おばちゃんは少しだけ目を細めて、「まったく、憎いこと言うねぇ」と笑った。
外へ出ると、日が暮れかけていた。
駐車場には重機が並び、ロープが張られている。
周囲には作業用のカラーコーン、鉄骨、仮設フェンス。
ユウタは、それをひととおり見渡してから、ポケットに手を突っ込む。
「……ヘルメット持ってない現場監督ってのも、なかなか様になってきたな」
小さく、ひとりごちる。
足元に転がっていた、古いサウナの木札。
誰かが落としていったのか、それとも……ここに、ずっとあったものか。
ユウタはそれを拾い上げて、ポケットにしまった。
「——さて、明日からこっち側の現場か」
その言葉が、夕方の風にふっと流れていった。
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